とか、よくタイトルに使うんですが、
なんか、こう、好きなんですよ、こういう文字。
なんか、威力があるというか、
たたずまいが見える気がする。
曲を聞くより先に、タイトルだけでもなんか、姿を感じる、
これはかつて別の場所に書いたことがある内容なのですが、
例えば、猫。
猫、という漢字。
猫、すごく、猫っぽいよね。
猫、かわいいけど、
猫、のかわいさが伝染して、
猫、ていう漢字も、もはやかわいい。
猫!
猫!
猫、好きです。
猫!
猫、に限らず。
他の文字でもそういうところはあるでしょう。
山、みたいな、そもそも形が形なものは当然だし、
あと、悪、とか。すごく悪っぽい。
冬とか。完全に冬。冬って書いたら、冬だ。
ただ、これ、
外国の方では、そうもいかないだろうな、
意味として理解するまでは勉強すればどうとでもなるけれど、
そこに、イメージまでが染み付くには、
それなりの時間がかかるだろうし、それはすなわち文化の違いですから、
そもそも収得が不可能に近いという場合すらあるでしょう。
・・・というような内容で、かつてはもう少し掘り下げて書いたのですが、
とりあえず今回の趣旨はそこにあらず。
要は私の好みによって、私の曲はやや特殊なタイトルが多いので、
そういえばこの日記は、ほんとうはphenomenons鍵盤として書いていたものだし、
ここでひとつ、少しだけタイトルをご紹介させて頂こうかと思った次第です。
ライブ中、タイトルほとんど言わないからね。
水天楼
ギターがすごくはやい指アルペジオを弾くあの曲です。
もともとの語源?は、摩天楼+水天宮 というきっかけだったはず。
タイトルが先行して出来ていて、
タイトルと関係なくあのアルペジオを思いついて、
後になってその二つをくっつけた、といういきさつです。
こういう作り方もけっこう多い。
まだ使われていない、未使用タイトル、というのがたくさんあります。
いつか全部消費できるといいのだけれど。
青空剥し
これ系のタイトルがいくつかあります。星空墜しとか、寒空濁しとか。
あまりライブでやらないので、ご存知ない方も多いかと思います。
やたらリズムが一時停止する、爽やかだけど機械っぽい曲。
これにはモチーフとした原作漫画があって、
青空、あるんだけど、これほんとは機械仕掛けの、スクリーンなんです。地下空間。
青空を剥して、本当の世界へ。
動詞の名詞形って、なんて言うんでしたっけ?
夢々し
ベースのアルペジオから始まる速い曲。
この、「し」で終わる系、好きなんだなきっと。
もうちょっと理論的に言えば、用言で終わる系、かしら。
用言でも、タイトルにしてしまえば体言になるので、
なんか、独特の浮遊感があります。
まあ、夢々しというのはそもそも造語ですが。
歌詞中にも夢という単語が何度か出てきます。
夢と書けば、大きくふたつの意味がありますが、
その両方からこの曲を捉えて欲しいということで、
夢と夢で、夢々し。
臨界事故
これはライブ中よくタイトルを言うのでご存知の方も多いかと思います。
最近の曲、、、ではないんですよ。
当時の記事があるので、この日記をご覧の方は、まぁ、わかると思いますが。
これは、そのまま。既成の言葉ですからね。
ことがことなので、破壊力は高いですが、
ただこれは、必ずしも、
あの、例の、当時のあの事故のことを書いているだけの曲ではないです。
タイトル、できれば字面で皆様にお伝えしたいのですが、
ライブ中にどうすればいいのだろう。プロジェクターかしら。
ページ
2014/04/05
2014/04/02
思いを馳せるために
音楽をしていた、ということもあります。
芸人のほうもそうなんですけど、
むしろこのことに気付いたのは芸人の練習のときで、
つまりもともと芸人のほうこそそうなんですけど、
音楽にも当然それが言えるかもしれないと思っています。
とにかく、
何かと言うと、
私は音楽も大道芸も全て独学ですが、
それを始めたのは、だいたい小学五年生くらいのころです。
比較的、練習はよくしていたような気もしますが、
それは自分にとって、それがもともと遊びの延長にあったから、
そういうふうに言うことができる側面もあります。
もったいぶった言い方をしたのは、
そうではない側面もあったから、ということです。
それが、ひとことで言えば、
思いを馳せるために、ということでした。
夜、学校のみんなは何をしているのだろう。
小学校のころ、登校班というのがあって、
年に一回夏休みに、班でのお楽しみ会があったんです。
それで、夜間プールというのがあって。
夜なんです。夜のプール。
特別なかんじがした。
言ってみれば、夜遊びへの憧れということなのですけど、
特別なかんじ、ということで言うならば、
これ、別に夜じゃなくてもよかったのかもしれない。
手を触れられないことの象徴としての、夜。
要は、特別な時間に触れた気がして。
自分と、誰かとの間にある、
なんだかよくわからないすきまのような時間を、
少しだけ埋められたような気がして、
ただ、それは、程度の問題で、
ひとり、という時間は必ずある。
ひとりの夜について、考えなくてはいけない。
それはつまり、
孤独についての問題であるのだと思うし、
ひとのしあわせについても関係のある話だと思いますが、
なにしろ、
ひとりであること、
ひとりであることを感じること、
ひとりであることを感じることで寂しい気持ちになること、
それらが最終的に自分の心の問題であることは、
だれにも明白なことだと思います。
ひとりの夜、
そのとき、誰かに会いに行こうとする、
それは直接的な解決方法ですし、おそらくよいことなのですが、
それはその時間をやりすごすことであって、
ひとりの夜についての、根本的な解決にはならない。
そんなとき、わたしは、
ボールを投げてました。
ピアノを弾いて、
楽譜を書いて、
スティックを回して、
曲を作って、
ギターを弾いて、
コマを手入れして、
ある夜、
ひとりの夜、
それは、自分だけでなく、
みんなが、ひとりを過ごしているのだと思った。
だれにも、ひとりの夜があって、
みんなが、ひとりの夜を過ごしている中で、
そのひとつとして自分もいる、そんなふうに思った。
その瞬間、
ひとりだった自分が、
なんだか、みんなと、同じ時間を過ごしているような気がした。
同じ場所にはいないけれど、
同じ時間の中にいる気がした。
それなら、自分は何をしよう、と思った。
ひとりの夜、
みんなが過ごしている、人それぞれのひとりの夜、
その中に自分がいるのなら、
そのとき自分は、どんな過ごし方をしている自分でありたいか。
そのことを考えることで、
みんなの夜に参加できる気がした。
みんなが参加している「ひとりの夜」というイベントに、
自分も参加できる気がした。
自分がひとりであるときのことを考えて、
自分がひとりをどう過ごすかを見つけたとき、
触りたくても触れなかった、だれかの夜、
「ひとり」という時間に、
触れることができるような気がした。
ひとりの夜、
自分の、自分らしい過ごし方をすることで、
みんなも、みんならしい過ごし方をしているのだろうと、
そうやって思いを馳せていたんです。
個性、自分らしさ、使命感、いろいろ言い方はあると思うのですが、
それを磨き、それを発揮し、それを全うすることは、
もちろん直接的に誰かの役に立つということもあるのでしょうが、
もしかするとそれ以上に、それらは、
ひとりになったとき、ひとりについて考えるとき、
ひとりの夜を過ごすときにこそ、重要になるのではないか。
そんな気も、少ししています。
しばらくぶりに記事を書きましたが、
この、記事を書くということについて考えた時にも、
やはり、思いを馳せているのだなと、
そんなことを思って、こんなことを書きました。
ちなみに筆者は、
ポルノグラフィティのヒトリノ夜は大好きです。
芸人のほうもそうなんですけど、
むしろこのことに気付いたのは芸人の練習のときで、
つまりもともと芸人のほうこそそうなんですけど、
音楽にも当然それが言えるかもしれないと思っています。
とにかく、
何かと言うと、
私は音楽も大道芸も全て独学ですが、
それを始めたのは、だいたい小学五年生くらいのころです。
比較的、練習はよくしていたような気もしますが、
それは自分にとって、それがもともと遊びの延長にあったから、
そういうふうに言うことができる側面もあります。
もったいぶった言い方をしたのは、
そうではない側面もあったから、ということです。
それが、ひとことで言えば、
思いを馳せるために、ということでした。
夜、学校のみんなは何をしているのだろう。
小学校のころ、登校班というのがあって、
年に一回夏休みに、班でのお楽しみ会があったんです。
それで、夜間プールというのがあって。
夜なんです。夜のプール。
特別なかんじがした。
言ってみれば、夜遊びへの憧れということなのですけど、
特別なかんじ、ということで言うならば、
これ、別に夜じゃなくてもよかったのかもしれない。
手を触れられないことの象徴としての、夜。
要は、特別な時間に触れた気がして。
自分と、誰かとの間にある、
なんだかよくわからないすきまのような時間を、
少しだけ埋められたような気がして、
ただ、それは、程度の問題で、
ひとり、という時間は必ずある。
ひとりの夜について、考えなくてはいけない。
それはつまり、
孤独についての問題であるのだと思うし、
ひとのしあわせについても関係のある話だと思いますが、
なにしろ、
ひとりであること、
ひとりであることを感じること、
ひとりであることを感じることで寂しい気持ちになること、
それらが最終的に自分の心の問題であることは、
だれにも明白なことだと思います。
ひとりの夜、
そのとき、誰かに会いに行こうとする、
それは直接的な解決方法ですし、おそらくよいことなのですが、
それはその時間をやりすごすことであって、
ひとりの夜についての、根本的な解決にはならない。
そんなとき、わたしは、
ボールを投げてました。
ピアノを弾いて、
楽譜を書いて、
スティックを回して、
曲を作って、
ギターを弾いて、
コマを手入れして、
ある夜、
ひとりの夜、
それは、自分だけでなく、
みんなが、ひとりを過ごしているのだと思った。
だれにも、ひとりの夜があって、
みんなが、ひとりの夜を過ごしている中で、
そのひとつとして自分もいる、そんなふうに思った。
その瞬間、
ひとりだった自分が、
なんだか、みんなと、同じ時間を過ごしているような気がした。
同じ場所にはいないけれど、
同じ時間の中にいる気がした。
それなら、自分は何をしよう、と思った。
ひとりの夜、
みんなが過ごしている、人それぞれのひとりの夜、
その中に自分がいるのなら、
そのとき自分は、どんな過ごし方をしている自分でありたいか。
そのことを考えることで、
みんなの夜に参加できる気がした。
みんなが参加している「ひとりの夜」というイベントに、
自分も参加できる気がした。
自分がひとりであるときのことを考えて、
自分がひとりをどう過ごすかを見つけたとき、
触りたくても触れなかった、だれかの夜、
「ひとり」という時間に、
触れることができるような気がした。
ひとりの夜、
自分の、自分らしい過ごし方をすることで、
みんなも、みんならしい過ごし方をしているのだろうと、
そうやって思いを馳せていたんです。
個性、自分らしさ、使命感、いろいろ言い方はあると思うのですが、
それを磨き、それを発揮し、それを全うすることは、
もちろん直接的に誰かの役に立つということもあるのでしょうが、
もしかするとそれ以上に、それらは、
ひとりになったとき、ひとりについて考えるとき、
ひとりの夜を過ごすときにこそ、重要になるのではないか。
そんな気も、少ししています。
しばらくぶりに記事を書きましたが、
この、記事を書くということについて考えた時にも、
やはり、思いを馳せているのだなと、
そんなことを思って、こんなことを書きました。
ちなみに筆者は、
ポルノグラフィティのヒトリノ夜は大好きです。
2013/03/02
何年かに一度
大きな変化を自覚します。
いや、人間的にとか、
社会情勢的にとかもそうなんですけど、
とりあえず、ここでは音楽の話です。
私は、一応の主張としては、
演奏よりも創作の人間だと申し上げておりますので、
つまり、作る曲の、方向性とか、技術とか、やりたいこととか、
そういったものが、何年かに一度、大きな変化をします。
作っている最中に意識することもあるし、
作ったものを後で聞いてみて、意識することもあります。
後者の場合、曲を聞いて、
「集大成」という感想を持つときと、
「発展」という感想を持つときがあって、
もちろん、どちらかに限れるわけでもないのですが、
なんとなく、どちらの比率が大きいのかということで、
これは「集大成」の曲、これは「発展」の曲というふうに、
なんとなく、どうでもよく線引いています。
「集大成」の場合、今まで発展してきて、膨らんできたものを、
ひとつ分かる形として、洗練して引き出しにしまうような作業なんですが、
こうすることで、発展してきた諸々に、コントロールが効くようになる。
後日、その諸々を再利用しやすくなる、ということですね。
「発展」の場合、とにかく、ばらまく。とっちらかる。
あとで集大成つくるときに回収しますので、という前提で、
とにかく、汚す。泥の中から、新しい何かを見つける。
で、いま、まさに、「発展」の方にきてます。
ただね、これなんですけど、
いままで、何年かに一度経験してきた「発展」とは、
今回、かなり性質が異なってます。
具体的に言えば、曲を作る前の段階から、意識しています。
受動的ではなくて、能動的に、意識しています。
何かが変わる気がする、ということではなくて、
何かを変えるつもりでいる、のです。
今回は。
いつもは、
「発展」の名が指し示すとおり、
”何かを持っていて、それを発端にしてさらに展開させる”
というようなことに近い。
ただ、今回は、
”全く別のところから、何かを持って帰ってきた”
というようなことに近い。
だから、「発展」よりはやはり「変化」、または「添加」?
誰かの何かが自分に添加されることを受け入れ始めているのかもしれぬ。
愛ですかね。
なにいってんだ私。
いや、人間的にとか、
社会情勢的にとかもそうなんですけど、
とりあえず、ここでは音楽の話です。
私は、一応の主張としては、
演奏よりも創作の人間だと申し上げておりますので、
つまり、作る曲の、方向性とか、技術とか、やりたいこととか、
そういったものが、何年かに一度、大きな変化をします。
作っている最中に意識することもあるし、
作ったものを後で聞いてみて、意識することもあります。
後者の場合、曲を聞いて、
「集大成」という感想を持つときと、
「発展」という感想を持つときがあって、
もちろん、どちらかに限れるわけでもないのですが、
なんとなく、どちらの比率が大きいのかということで、
これは「集大成」の曲、これは「発展」の曲というふうに、
なんとなく、どうでもよく線引いています。
「集大成」の場合、今まで発展してきて、膨らんできたものを、
ひとつ分かる形として、洗練して引き出しにしまうような作業なんですが、
こうすることで、発展してきた諸々に、コントロールが効くようになる。
後日、その諸々を再利用しやすくなる、ということですね。
「発展」の場合、とにかく、ばらまく。とっちらかる。
あとで集大成つくるときに回収しますので、という前提で、
とにかく、汚す。泥の中から、新しい何かを見つける。
で、いま、まさに、「発展」の方にきてます。
ただね、これなんですけど、
いままで、何年かに一度経験してきた「発展」とは、
今回、かなり性質が異なってます。
具体的に言えば、曲を作る前の段階から、意識しています。
受動的ではなくて、能動的に、意識しています。
何かが変わる気がする、ということではなくて、
何かを変えるつもりでいる、のです。
今回は。
いつもは、
「発展」の名が指し示すとおり、
”何かを持っていて、それを発端にしてさらに展開させる”
というようなことに近い。
ただ、今回は、
”全く別のところから、何かを持って帰ってきた”
というようなことに近い。
だから、「発展」よりはやはり「変化」、または「添加」?
誰かの何かが自分に添加されることを受け入れ始めているのかもしれぬ。
愛ですかね。
なにいってんだ私。
2012/06/02
作った曲を、何に使うか
毎回、悩みます。
複数の音楽団体に所属しているので、
出来上がった曲を、何に使うか、
困ってしまうんですね。
いや、
はじめから何に使うか決めてかかればいいんですけど、
そうでなくて無意味に思いついたモチーフは、
それをピアノ曲にするか、
バンド曲にするか、
演劇音楽にするか、
演技音楽にするか、
そのたもろもろ、
困ってしまいます。
それが、遅筆の理由のひとつでもあります。
機能音楽を作る上では住み分けはできるのですが、
そこになんらかの表現を生み出そうとした時には、
毎回、具体的な音は歌詞は雰囲気は違えど、
なにをそこに描きたいか、ということは、ほとんどいつも、
変わらないんです。
じゃぁ、なんなんだ、といわれると、
一言ではすらっとは言いにくいのですが、
自分の曲をあとで聞いてみると、
そのなかに、
「あ、ここは、soriの切なさだ」とか、
「この高揚は、soriだ」とか、
あるんです。
で、だいたい変わらず、そういったものを描きたくあって、
で、だいたい変わらず、そういったものを描くのですね。
技術的な変化は毎曲にはっきりと見受けられますが、
描きたいと思っているものは、毎回変わらない。
いや、描きたいと思っているものも、蓄積されては行くので、
進化、というか深化はしています。
ただし、もとからあるものはありつづけるままで、
蓄積されていって、コントロールも利きますが、変化はしません。
そんなこんななので、
描きたいものが一貫している以上、
それは、全身全霊soriなので、
それを、いろんな場所に持って行きたくなってしまう、
バンドでもやってほしいし、ボカロにも歌ってほしい、
演劇にも使って欲しいし、通学途中にも聞いてほしい。
なので、毎回悩むんですね。
何に使うか。
複数の音楽団体に所属しているので、
出来上がった曲を、何に使うか、
困ってしまうんですね。
いや、
はじめから何に使うか決めてかかればいいんですけど、
そうでなくて無意味に思いついたモチーフは、
それをピアノ曲にするか、
バンド曲にするか、
演劇音楽にするか、
演技音楽にするか、
そのたもろもろ、
困ってしまいます。
それが、遅筆の理由のひとつでもあります。
機能音楽を作る上では住み分けはできるのですが、
そこになんらかの表現を生み出そうとした時には、
毎回、具体的な音は歌詞は雰囲気は違えど、
なにをそこに描きたいか、ということは、ほとんどいつも、
変わらないんです。
じゃぁ、なんなんだ、といわれると、
一言ではすらっとは言いにくいのですが、
自分の曲をあとで聞いてみると、
そのなかに、
「あ、ここは、soriの切なさだ」とか、
「この高揚は、soriだ」とか、
あるんです。
で、だいたい変わらず、そういったものを描きたくあって、
で、だいたい変わらず、そういったものを描くのですね。
技術的な変化は毎曲にはっきりと見受けられますが、
描きたいと思っているものは、毎回変わらない。
いや、描きたいと思っているものも、蓄積されては行くので、
進化、というか深化はしています。
ただし、もとからあるものはありつづけるままで、
蓄積されていって、コントロールも利きますが、変化はしません。
そんなこんななので、
描きたいものが一貫している以上、
それは、全身全霊soriなので、
それを、いろんな場所に持って行きたくなってしまう、
バンドでもやってほしいし、ボカロにも歌ってほしい、
演劇にも使って欲しいし、通学途中にも聞いてほしい。
なので、毎回悩むんですね。
何に使うか。
2011/12/02
客層を前提に演技内容を考える
ということは、芸人の基本でして、
私は音楽家でありますが、芸人でもあるので、
音楽を作る際にも、客を意識するというか、
いや、どちらかというと、
客の存在がモチベーションになる、ということでしょうか。
環境が充実した現代はともかく、
かつては、作曲家達は、
それを演奏して”もらう”ことを前提として曲を書いていました。
録音媒体がない。
いろんな音の出せる万能な機械がない。
ひとりでは、どうしようもなかったんです。
その意味で、
作曲家にとっての”客”は、
聴衆でもあれ、
演奏家でもあったはずなのです。
中学時代吹奏楽部だった私が、
高校では、軽音楽部に入部し、
そこで、作曲家としての自分が最も大きな影響を受けたのは、
身近な”演奏家”の存在です。
吹奏楽部は、
よくもわるくも規模が大きい。
中学時代に吹奏楽用のスコアも書きましたが、
やはり何十人を巻き込んで演奏してもらうことはできなかった。
それまで、自分のために、
自分一人で完結する曲を作ってきた私が、
軽音楽部時代、
いよいよ、誰かに演奏してもらうための曲を書くようになった、
それは、ひとつの革新です。
演奏者を前提として、書く曲がある。
当たり前なんですけどね。
ただ、
少し、自分の遅筆を呪うこともあります。
例えば、その”誰か”を前提に書いていた曲、
それが完成する前に、
その”誰か”が、いなくなってしまったり、とか。
私は音楽家でありますが、芸人でもあるので、
音楽を作る際にも、客を意識するというか、
いや、どちらかというと、
客の存在がモチベーションになる、ということでしょうか。
環境が充実した現代はともかく、
かつては、作曲家達は、
それを演奏して”もらう”ことを前提として曲を書いていました。
録音媒体がない。
いろんな音の出せる万能な機械がない。
ひとりでは、どうしようもなかったんです。
その意味で、
作曲家にとっての”客”は、
聴衆でもあれ、
演奏家でもあったはずなのです。
中学時代吹奏楽部だった私が、
高校では、軽音楽部に入部し、
そこで、作曲家としての自分が最も大きな影響を受けたのは、
身近な”演奏家”の存在です。
吹奏楽部は、
よくもわるくも規模が大きい。
中学時代に吹奏楽用のスコアも書きましたが、
やはり何十人を巻き込んで演奏してもらうことはできなかった。
それまで、自分のために、
自分一人で完結する曲を作ってきた私が、
軽音楽部時代、
いよいよ、誰かに演奏してもらうための曲を書くようになった、
それは、ひとつの革新です。
演奏者を前提として、書く曲がある。
当たり前なんですけどね。
ただ、
少し、自分の遅筆を呪うこともあります。
例えば、その”誰か”を前提に書いていた曲、
それが完成する前に、
その”誰か”が、いなくなってしまったり、とか。
2011/09/29
こと自然物が規則正しく並んでいたりすることには
違和感というか、畏怖というか、なにかしら感じることがあります。
昔、ちゅうがくせいくらいのころ、
似たような発想で、並木、という曲を書いた覚えがあります。
並ぶ気はなかった、並ばされた、動けない、的な、
近所の土手、
堤防の上に上がっていく、わりとなだらかな坂、
その頂上には二本の木が立っていて、
いや、
厳密には、
何十本という木が立っていて、
しかしその坂の上る先、
その道の左右にたたずむ二本だけが、
どうも、こちらを向いている気がしてならない、
その二本が、
規則正しく並んだ二本が、
突然、
”門”
に見えたのですね。
特に、夜、
その坂を登っていくと、
その先は川であるので、
角度的に、
その”門”の先には、
青い色しか見えないのです。
鳥居、
象徴としての”門”のひとつ、
こちらとあちらを結ぶ結界、
的なたたずまいを見せたその二本の木、
の先の青い世界、
考えてみれば、
その土手は、
私にとってはかなり特別な場所で、
それなりに特別な思い出があり、
そこに自然と、鳥居が建った。
守るように、結界が現れた。
ただ、
実は、
その二本の木の並びは、
よく見ると、
道に対してはななめになっていて、
つまり、
きれいに並ばされているわけでもなかった、
それが、
坂を登っていく時だけ、
突然、
”門”に見える、
特別な場所に、
象徴としての形を見出すのですね。
勝手に。
的な曲を書いています。
昔、ちゅうがくせいくらいのころ、
似たような発想で、並木、という曲を書いた覚えがあります。
並ぶ気はなかった、並ばされた、動けない、的な、
近所の土手、
堤防の上に上がっていく、わりとなだらかな坂、
その頂上には二本の木が立っていて、
いや、
厳密には、
何十本という木が立っていて、
しかしその坂の上る先、
その道の左右にたたずむ二本だけが、
どうも、こちらを向いている気がしてならない、
その二本が、
規則正しく並んだ二本が、
突然、
”門”
に見えたのですね。
特に、夜、
その坂を登っていくと、
その先は川であるので、
角度的に、
その”門”の先には、
青い色しか見えないのです。
鳥居、
象徴としての”門”のひとつ、
こちらとあちらを結ぶ結界、
的なたたずまいを見せたその二本の木、
の先の青い世界、
考えてみれば、
その土手は、
私にとってはかなり特別な場所で、
それなりに特別な思い出があり、
そこに自然と、鳥居が建った。
守るように、結界が現れた。
ただ、
実は、
その二本の木の並びは、
よく見ると、
道に対してはななめになっていて、
つまり、
きれいに並ばされているわけでもなかった、
それが、
坂を登っていく時だけ、
突然、
”門”に見える、
特別な場所に、
象徴としての形を見出すのですね。
勝手に。
的な曲を書いています。
2011/09/09
トンネルの向こうが雪国である件については、
そう思うためには、トンネルの存在は、かなり大きいんです。
別に雪国じゃなくて、不思議の国でも、構いません。
トンネルを抜けたら、いきなり雪国なんです。
いや、詳しいことは知らないんですけど、
たぶん、そうなんです。
しばらくの闇の中、
しばらくの箱の中、
そこから外にでていきなり世界が白々きらきらぴかぴかしとるので、
あらまぁ、
雪国や。
となるわけです。
箱の中。
電車の中。
かなりわりとしっかりひきこもりな私ですため、
せいぜい10km、
自転車なら一時間かからない距離でも、
そこは異世界です。
電車を降りたら、不思議の国でした。
つまりはいつも電車で行っていた街、
そこに、
初めて自転車で行った時、
感動もありましたし、
しかし同時に、
そこは不思議の国ではなくなった。
闇の中、
どこまでも黒い世界から、
いきなり、
どこまでも真っ白な世界へ、
おお、なんとまぁ、
雪国や。
しかし、外を歩いてゆけば、
だんだんと、だんだんと、
世界が白んでいく。
同じひとつの世界の中で、
ただしここには、雪が、降っている。
それだけのこと。
ただ、もともと、自分にとっては、
雪は、別世界の象徴。
それが、今、自分のいる世界で、確かに降っている。
あらまぁ、
雪や。
別世界が、またひとつ、消えた。
ただ、それと同時に、
この世界が、もうすこしばかり、不思議に思えたり。
別に雪国じゃなくて、不思議の国でも、構いません。
トンネルを抜けたら、いきなり雪国なんです。
いや、詳しいことは知らないんですけど、
たぶん、そうなんです。
しばらくの闇の中、
しばらくの箱の中、
そこから外にでていきなり世界が白々きらきらぴかぴかしとるので、
あらまぁ、
雪国や。
となるわけです。
箱の中。
電車の中。
かなりわりとしっかりひきこもりな私ですため、
せいぜい10km、
自転車なら一時間かからない距離でも、
そこは異世界です。
電車を降りたら、不思議の国でした。
つまりはいつも電車で行っていた街、
そこに、
初めて自転車で行った時、
感動もありましたし、
しかし同時に、
そこは不思議の国ではなくなった。
闇の中、
どこまでも黒い世界から、
いきなり、
どこまでも真っ白な世界へ、
おお、なんとまぁ、
雪国や。
しかし、外を歩いてゆけば、
だんだんと、だんだんと、
世界が白んでいく。
同じひとつの世界の中で、
ただしここには、雪が、降っている。
それだけのこと。
ただ、もともと、自分にとっては、
雪は、別世界の象徴。
それが、今、自分のいる世界で、確かに降っている。
あらまぁ、
雪や。
別世界が、またひとつ、消えた。
ただ、それと同時に、
この世界が、もうすこしばかり、不思議に思えたり。
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