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2014/04/05

とか、よくタイトルに使うんですが、
なんか、こう、好きなんですよ、こういう文字。
なんか、威力があるというか、
たたずまいが見える気がする。
曲を聞くより先に、タイトルだけでもなんか、姿を感じる、



これはかつて別の場所に書いたことがある内容なのですが、
例えば、猫。
猫、という漢字。
猫、すごく、猫っぽいよね。
猫、かわいいけど、
猫、のかわいさが伝染して、
猫、ていう漢字も、もはやかわいい。
猫!
猫!
猫、好きです。
猫!


猫、に限らず。
他の文字でもそういうところはあるでしょう。
山、みたいな、そもそも形が形なものは当然だし、
あと、悪、とか。すごく悪っぽい。
冬とか。完全に冬。冬って書いたら、冬だ。

ただ、これ、
外国の方では、そうもいかないだろうな、
意味として理解するまでは勉強すればどうとでもなるけれど、
そこに、イメージまでが染み付くには、
それなりの時間がかかるだろうし、それはすなわち文化の違いですから、
そもそも収得が不可能に近いという場合すらあるでしょう。

・・・というような内容で、かつてはもう少し掘り下げて書いたのですが、
とりあえず今回の趣旨はそこにあらず。
要は私の好みによって、私の曲はやや特殊なタイトルが多いので、
そういえばこの日記は、ほんとうはphenomenons鍵盤として書いていたものだし、
ここでひとつ、少しだけタイトルをご紹介させて頂こうかと思った次第です。
ライブ中、タイトルほとんど言わないからね。






水天楼

ギターがすごくはやい指アルペジオを弾くあの曲です。
もともとの語源?は、摩天楼+水天宮 というきっかけだったはず。
タイトルが先行して出来ていて、
タイトルと関係なくあのアルペジオを思いついて、
後になってその二つをくっつけた、といういきさつです。
こういう作り方もけっこう多い。
まだ使われていない、未使用タイトル、というのがたくさんあります。
いつか全部消費できるといいのだけれど。




青空剥し

これ系のタイトルがいくつかあります。星空墜しとか、寒空濁しとか。
あまりライブでやらないので、ご存知ない方も多いかと思います。
やたらリズムが一時停止する、爽やかだけど機械っぽい曲。
これにはモチーフとした原作漫画があって、
青空、あるんだけど、これほんとは機械仕掛けの、スクリーンなんです。地下空間。
青空を剥して、本当の世界へ。
動詞の名詞形って、なんて言うんでしたっけ?




夢々し

ベースのアルペジオから始まる速い曲。
この、「し」で終わる系、好きなんだなきっと。
もうちょっと理論的に言えば、用言で終わる系、かしら。
用言でも、タイトルにしてしまえば体言になるので、
なんか、独特の浮遊感があります。
まあ、夢々しというのはそもそも造語ですが。
歌詞中にも夢という単語が何度か出てきます。
夢と書けば、大きくふたつの意味がありますが、
その両方からこの曲を捉えて欲しいということで、
夢と夢で、夢々し。




臨界事故

これはライブ中よくタイトルを言うのでご存知の方も多いかと思います。
最近の曲、、、ではないんですよ。
当時の記事があるので、この日記をご覧の方は、まぁ、わかると思いますが。
これは、そのまま。既成の言葉ですからね。
ことがことなので、破壊力は高いですが、
ただこれは、必ずしも、
あの、例の、当時のあの事故のことを書いているだけの曲ではないです。








タイトル、できれば字面で皆様にお伝えしたいのですが、
ライブ中にどうすればいいのだろう。プロジェクターかしら。

2014/04/02

思いを馳せるために

音楽をしていた、ということもあります。
芸人のほうもそうなんですけど、
むしろこのことに気付いたのは芸人の練習のときで、
つまりもともと芸人のほうこそそうなんですけど、
音楽にも当然それが言えるかもしれないと思っています。
とにかく、
何かと言うと、








私は音楽も大道芸も全て独学ですが、
それを始めたのは、だいたい小学五年生くらいのころです。
比較的、練習はよくしていたような気もしますが、
それは自分にとって、それがもともと遊びの延長にあったから、
そういうふうに言うことができる側面もあります。
もったいぶった言い方をしたのは、
そうではない側面もあったから、ということです。
それが、ひとことで言えば、
思いを馳せるために、ということでした。










夜、学校のみんなは何をしているのだろう。









小学校のころ、登校班というのがあって、
年に一回夏休みに、班でのお楽しみ会があったんです。
それで、夜間プールというのがあって。
夜なんです。夜のプール。

特別なかんじがした。
言ってみれば、夜遊びへの憧れということなのですけど、
特別なかんじ、ということで言うならば、
これ、別に夜じゃなくてもよかったのかもしれない。











手を触れられないことの象徴としての、夜。
要は、特別な時間に触れた気がして。
自分と、誰かとの間にある、
なんだかよくわからないすきまのような時間を、
少しだけ埋められたような気がして、


ただ、それは、程度の問題で、
ひとり、という時間は必ずある。
ひとりの夜について、考えなくてはいけない。
それはつまり、
孤独についての問題であるのだと思うし、
ひとのしあわせについても関係のある話だと思いますが、
なにしろ、
ひとりであること、
ひとりであることを感じること、
ひとりであることを感じることで寂しい気持ちになること、
それらが最終的に自分の心の問題であることは、
だれにも明白なことだと思います。









ひとりの夜、
そのとき、誰かに会いに行こうとする、
それは直接的な解決方法ですし、おそらくよいことなのですが、
それはその時間をやりすごすことであって、
ひとりの夜についての、根本的な解決にはならない。










そんなとき、わたしは、
ボールを投げてました。

ピアノを弾いて、
楽譜を書いて、
スティックを回して、
曲を作って、
ギターを弾いて、
コマを手入れして、









ある夜、
ひとりの夜、
それは、自分だけでなく、
みんなが、ひとりを過ごしているのだと思った。
だれにも、ひとりの夜があって、
みんなが、ひとりの夜を過ごしている中で、
そのひとつとして自分もいる、そんなふうに思った。

その瞬間、
ひとりだった自分が、
なんだか、みんなと、同じ時間を過ごしているような気がした。
同じ場所にはいないけれど、
同じ時間の中にいる気がした。
それなら、自分は何をしよう、と思った。
ひとりの夜、
みんなが過ごしている、人それぞれのひとりの夜、
その中に自分がいるのなら、
そのとき自分は、どんな過ごし方をしている自分でありたいか。









そのことを考えることで、
みんなの夜に参加できる気がした。










みんなが参加している「ひとりの夜」というイベントに、
自分も参加できる気がした。

自分がひとりであるときのことを考えて、
自分がひとりをどう過ごすかを見つけたとき、
触りたくても触れなかった、だれかの夜、
「ひとり」という時間に、
触れることができるような気がした。















ひとりの夜、
自分の、自分らしい過ごし方をすることで、
みんなも、みんならしい過ごし方をしているのだろうと、
そうやって思いを馳せていたんです。

個性、自分らしさ、使命感、いろいろ言い方はあると思うのですが、
それを磨き、それを発揮し、それを全うすることは、
もちろん直接的に誰かの役に立つということもあるのでしょうが、
もしかするとそれ以上に、それらは、
ひとりになったとき、ひとりについて考えるとき、
ひとりの夜を過ごすときにこそ、重要になるのではないか。
そんな気も、少ししています。


















しばらくぶりに記事を書きましたが、
この、記事を書くということについて考えた時にも、
やはり、思いを馳せているのだなと、
そんなことを思って、こんなことを書きました。
ちなみに筆者は、
ポルノグラフィティのヒトリノ夜は大好きです。






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