音楽をしていた、ということもあります。
芸人のほうもそうなんですけど、
むしろこのことに気付いたのは芸人の練習のときで、
つまりもともと芸人のほうこそそうなんですけど、
音楽にも当然それが言えるかもしれないと思っています。
とにかく、
何かと言うと、
私は音楽も大道芸も全て独学ですが、
それを始めたのは、だいたい小学五年生くらいのころです。
比較的、練習はよくしていたような気もしますが、
それは自分にとって、それがもともと遊びの延長にあったから、
そういうふうに言うことができる側面もあります。
もったいぶった言い方をしたのは、
そうではない側面もあったから、ということです。
それが、ひとことで言えば、
思いを馳せるために、ということでした。
夜、学校のみんなは何をしているのだろう。
小学校のころ、登校班というのがあって、
年に一回夏休みに、班でのお楽しみ会があったんです。
それで、夜間プールというのがあって。
夜なんです。夜のプール。
特別なかんじがした。
言ってみれば、夜遊びへの憧れということなのですけど、
特別なかんじ、ということで言うならば、
これ、別に夜じゃなくてもよかったのかもしれない。
手を触れられないことの象徴としての、夜。
要は、特別な時間に触れた気がして。
自分と、誰かとの間にある、
なんだかよくわからないすきまのような時間を、
少しだけ埋められたような気がして、
ただ、それは、程度の問題で、
ひとり、という時間は必ずある。
ひとりの夜について、考えなくてはいけない。
それはつまり、
孤独についての問題であるのだと思うし、
ひとのしあわせについても関係のある話だと思いますが、
なにしろ、
ひとりであること、
ひとりであることを感じること、
ひとりであることを感じることで寂しい気持ちになること、
それらが最終的に自分の心の問題であることは、
だれにも明白なことだと思います。
ひとりの夜、
そのとき、誰かに会いに行こうとする、
それは直接的な解決方法ですし、おそらくよいことなのですが、
それはその時間をやりすごすことであって、
ひとりの夜についての、根本的な解決にはならない。
そんなとき、わたしは、
ボールを投げてました。
ピアノを弾いて、
楽譜を書いて、
スティックを回して、
曲を作って、
ギターを弾いて、
コマを手入れして、
ある夜、
ひとりの夜、
それは、自分だけでなく、
みんなが、ひとりを過ごしているのだと思った。
だれにも、ひとりの夜があって、
みんなが、ひとりの夜を過ごしている中で、
そのひとつとして自分もいる、そんなふうに思った。
その瞬間、
ひとりだった自分が、
なんだか、みんなと、同じ時間を過ごしているような気がした。
同じ場所にはいないけれど、
同じ時間の中にいる気がした。
それなら、自分は何をしよう、と思った。
ひとりの夜、
みんなが過ごしている、人それぞれのひとりの夜、
その中に自分がいるのなら、
そのとき自分は、どんな過ごし方をしている自分でありたいか。
そのことを考えることで、
みんなの夜に参加できる気がした。
みんなが参加している「ひとりの夜」というイベントに、
自分も参加できる気がした。
自分がひとりであるときのことを考えて、
自分がひとりをどう過ごすかを見つけたとき、
触りたくても触れなかった、だれかの夜、
「ひとり」という時間に、
触れることができるような気がした。
ひとりの夜、
自分の、自分らしい過ごし方をすることで、
みんなも、みんならしい過ごし方をしているのだろうと、
そうやって思いを馳せていたんです。
個性、自分らしさ、使命感、いろいろ言い方はあると思うのですが、
それを磨き、それを発揮し、それを全うすることは、
もちろん直接的に誰かの役に立つということもあるのでしょうが、
もしかするとそれ以上に、それらは、
ひとりになったとき、ひとりについて考えるとき、
ひとりの夜を過ごすときにこそ、重要になるのではないか。
そんな気も、少ししています。
しばらくぶりに記事を書きましたが、
この、記事を書くということについて考えた時にも、
やはり、思いを馳せているのだなと、
そんなことを思って、こんなことを書きました。
ちなみに筆者は、
ポルノグラフィティのヒトリノ夜は大好きです。
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2014/04/02
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