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2011/12/02

客層を前提に演技内容を考える

ということは、芸人の基本でして、





私は音楽家でありますが、芸人でもあるので、
音楽を作る際にも、客を意識するというか、

いや、どちらかというと、
客の存在がモチベーションになる、ということでしょうか。






環境が充実した現代はともかく、
かつては、作曲家達は、
それを演奏して”もらう”ことを前提として曲を書いていました。


録音媒体がない。
いろんな音の出せる万能な機械がない。
ひとりでは、どうしようもなかったんです。






その意味で、
作曲家にとっての”客”は、
聴衆でもあれ、
演奏家でもあったはずなのです。







中学時代吹奏楽部だった私が、
高校では、軽音楽部に入部し、
そこで、作曲家としての自分が最も大きな影響を受けたのは、
身近な”演奏家”の存在です。


吹奏楽部は、
よくもわるくも規模が大きい。
中学時代に吹奏楽用のスコアも書きましたが、
やはり何十人を巻き込んで演奏してもらうことはできなかった。


それまで、自分のために、
自分一人で完結する曲を作ってきた私が、
軽音楽部時代、
いよいよ、誰かに演奏してもらうための曲を書くようになった、
それは、ひとつの革新です。









演奏者を前提として、書く曲がある。
当たり前なんですけどね。











ただ、
少し、自分の遅筆を呪うこともあります。
例えば、その”誰か”を前提に書いていた曲、
それが完成する前に、
その”誰か”が、いなくなってしまったり、とか。

2011/09/29

こと自然物が規則正しく並んでいたりすることには

違和感というか、畏怖というか、なにかしら感じることがあります。




昔、ちゅうがくせいくらいのころ、
似たような発想で、並木、という曲を書いた覚えがあります。
並ぶ気はなかった、並ばされた、動けない、的な、










近所の土手、
堤防の上に上がっていく、わりとなだらかな坂、
その頂上には二本の木が立っていて、

いや、
厳密には、
何十本という木が立っていて、
しかしその坂の上る先、
その道の左右にたたずむ二本だけが、
どうも、こちらを向いている気がしてならない、





その二本が、
規則正しく並んだ二本が、
突然、

”門”

に見えたのですね。










特に、夜、
その坂を登っていくと、
その先は川であるので、

角度的に、
その”門”の先には、
青い色しか見えないのです。










鳥居、
象徴としての”門”のひとつ、
こちらとあちらを結ぶ結界、

的なたたずまいを見せたその二本の木、

の先の青い世界、














考えてみれば、
その土手は、
私にとってはかなり特別な場所で、
それなりに特別な思い出があり、


そこに自然と、鳥居が建った。
守るように、結界が現れた。













ただ、
実は、
その二本の木の並びは、
よく見ると、
道に対してはななめになっていて、
つまり、
きれいに並ばされているわけでもなかった、



それが、
坂を登っていく時だけ、
突然、
”門”に見える、






特別な場所に、
象徴としての形を見出すのですね。
勝手に。










的な曲を書いています。

2011/09/09

トンネルの向こうが雪国である件については、

そう思うためには、トンネルの存在は、かなり大きいんです。
別に雪国じゃなくて、不思議の国でも、構いません。




トンネルを抜けたら、いきなり雪国なんです。
いや、詳しいことは知らないんですけど、
たぶん、そうなんです。
しばらくの闇の中、
しばらくの箱の中、
そこから外にでていきなり世界が白々きらきらぴかぴかしとるので、
あらまぁ、
雪国や。

となるわけです。






箱の中。
電車の中。

かなりわりとしっかりひきこもりな私ですため、
せいぜい10km、
自転車なら一時間かからない距離でも、
そこは異世界です。
電車を降りたら、不思議の国でした。




つまりはいつも電車で行っていた街、
そこに、
初めて自転車で行った時、
感動もありましたし、
しかし同時に、
そこは不思議の国ではなくなった。






闇の中、
どこまでも黒い世界から、
いきなり、
どこまでも真っ白な世界へ、
おお、なんとまぁ、
雪国や。




しかし、外を歩いてゆけば、
だんだんと、だんだんと、
世界が白んでいく。

同じひとつの世界の中で、
ただしここには、雪が、降っている。
それだけのこと。







ただ、もともと、自分にとっては、
雪は、別世界の象徴。
それが、今、自分のいる世界で、確かに降っている。
あらまぁ、
雪や。











別世界が、またひとつ、消えた。
ただ、それと同時に、
この世界が、もうすこしばかり、不思議に思えたり。

2011/07/17

耳を失う

ということを考えました。
いや、あの、
ヴィジュアル的にね。




目を失う、と、書けば、
眼球を潰しますよね。

光を失う、ならば、
眼球は潰れていなくてもいい。


そういう感覚的な意味で、
え、では、
耳を失う、って、なんですか。







耳たぶを失うことは、耳を失うことかはたして。
いや、ビジュアル的に”耳”というと、
大いに「耳たぶ」のことを指していそうですけど、
いや、でも、
”耳”の本質って、
もしかして、
「穴」じゃありません?

まぁもっと突っ込めば、「鼓膜」ですよね。
少なくとも、耳たぶは、耳の本質ではない。




ただし、
同じ事を目に関して言えば、
耳たぶ、に相当するものは、
たぶん、水晶体じゃないかしら。

そして、
目が悪いということ、
いわゆる近視というやつの理由は、
網膜―耳で言うところの鼓膜―ではなく、
水晶体にあります。
正確には水晶体を制御している筋肉ですけど。







いや、どうでもいいんですけどね。

2011/07/12

臨界事故

という、極めて不謹慎な曲を書きました。



いや、あの、
3月も下りの頃に、
例えば、一例としてですけど、
要するに放射性物質がかなりやばそうだ、
東京も笑ってはいられない、
というような雰囲気になって、

関西に逃げようか、とか、
せめて子供だけでも西の親戚に預けよう、とか、
そういう流れもあったわけです。



で、
それを、子供の側が拒否したとします。




さて、これは、親にとっては、、、




もちろん、”事故”は、炉心融解であって、
もっと大きく言えば地震であって、



では、
結果として「被害」を被ったとする、
その直接的原因はと言えば、

炉心融解も、地震もそうなんですけど、
子供が”拒否”した事も、原因のひとつですよね。




では、恐れている”事故”とは、じっさいいったい、何なのか。






そんなことを考えていて、
”事故”が、”自己”に見えてきた。
もしかして、あなたが恐れているのは、私なんじゃありません?www








そんなことを考えて、
しかし、地震そのものの被害―もちろん津波を含めて―を受けた東北では、
もう圧倒的に、ごちゃごちゃになってしまっていて、そんなことは問題ではないんですよね。












まだ余震の可能性があるだとか、
放射性物質がどうだとか、
そういうことを気にするのであれば、

親しい人が、現地にボランティアに行こうと決意してしまった、
それもある種の”事故”と考えてしまえるかもしれない。
ただ、その「現地」では、
そんなことは問題となされていない。






どうでしょうね。
難しい問題ですけど。

2011/04/20

特に何でもないのですが

流石にこれ以上空白のままだとまずいので何か書きます。



一応はthe phenomenonsの鍵盤という立場でもって書いています。
いや、phenomeのボーカルさんがブログでも書けば、と仰りまして、
ブログを作るところまでは勝手にやってくれてしまったので、
つまり本人にそこまでやる気はないのですね。残念。


ですから、すごくてきとうに更新します。
本日の用事はそれだけです。
お疲れ様でした。
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